橋本聖子さんは、2021年の東京オリンピック大会において東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長に選ばれて、若い方たちにも一気に知名度を上げました。
これまでの日本でのオリンピック最多出場選手は、スキージャンプのレジェンド葛西紀明選手の8回出場ですが、橋本聖子さんは冬季・夏季オリンピック合わせて7回出場し、総合でも2位で女性としては最多出場記録を持っています。
オリンピックでの華々しい成績と、政治家に転身しても溢れるバイタリティーで活躍できるのは、幼少期やオリンピック選手時代にありました。
それでは、橋本聖子さんの幼少期の希少な画像やオリンピック選手時代の画像を時系列でご紹介していきます。
目次
橋本聖子の昔の若い頃①幼少期
橋本聖子さんは、北海道勇払郡早来町(現・安平町)に生まれ育ちました。
北海道という自然豊かな場所で、橋本家の4人兄弟の末っ子として誕生し、名前はオリンピックの聖火の聖の字を取って「聖子」と名付けられたのは有名な話です。
橋本聖子さんが3歳の頃の画像になります。
この頃はまだ面影がありませんが、非常にやんちゃな感じが伝わってきます。
橋本聖子さんの実家は、マルゼン橋本牧場という牧場を経営しており、広大な牧場で牛や馬たちと共に育っていきました。
父親の橋本善吉さんは、娘の橋本聖子さんをオリンピックの選手にしたかったので、3歳の頃から地元でスケートを始めさせていました。
こちらは、橋本聖子さんが5歳の時の画像です。
大柄な父、橋本善吉さんに片手で抱えあげられて喜んでいます。
仲睦まじい姿ですが、この頃から橋本家の兄弟は、実家の牧場の手伝いや家事などを率先してやらされていたといいます。
この過酷な環境が、橋本聖子さんを精神的に強くしていったのかもしれません。
この当時は9歳ですが、この日は女の子らしく可愛い洋服でおめかししています。
橋本聖子さんはこの時は小学3年生でしたが、重い腎臓病にかかってしまい2ヵ月間もの入院生活を余儀なくされました。
腎臓病で、体調を崩してしまって丸2年間スポーツが出来なくなってしまいました。
スケートができない日々
3歳からスケートを始めた橋本聖子さんですが、最初の内は父親の橋本善吉さんに教わっていました。
2年間の期間を経て、ようやくまたスケートが出来るようになり、雄谷彰さんには中学1年生まで指導を受ける事となりました。
スケートの楽しさを教えてくれたのは、ボランティアでスケートを教えてくれた雄谷彰さんだったのです。
雄谷さんは、近所の子供達にボランティアでスケート指導をして下さっていて、私は幼稚園から中学1年生までお世話になりました。成長に合わせて、その都度、本当にいいコーチに巡りあえたと思うのですが、雄谷さんは子供だった私に何よりもまず、「スケートは楽しい」と教えてくれました。
引用元:橋本聖子オフィシャルサイト
橋本聖子の昔の若い頃②10代
こちらは17歳になった橋本聖子さんですが、スピードスケートの選手としてメキメキ成長し、高校2年生で全日本の500mと1500mで優勝するまでになりました。
しかし、この頃にまたしても病が襲います。
高校3年生となった18歳の時に、呼吸筋不全症という普段の呼吸すらままならない呼吸器系の病に侵されてしまいます。
今までは、肺活量が4000㏄ありましたが、呼吸筋不全症を患ってからは、2400㏄にまで激変してしまいました。
主治医の先生にも、このままスポーツを続けたら命の保証はないとまで宣告されてしまったのです。
命の危機まで宣告されてしまった橋本聖子さんですが、持ち前のバイタリティーで克服し、わずか3ヵ月で全日本スピード選手権で500m、1500m、3000m、5000mと完全制覇の勝利を飾っていしまいました。
肺活量は戻りませんでしたが、過酷なトレーニングにより、その弱点を克服してしまいました。
橋本聖子の昔の若い頃③オリンピック選手
1984年サラエボオリンピック
自身初のオリンピック出場となった、1984年のサラエボオリンピックですが、結果は伴わずに入賞となりませんでした。
この頃はまだ19歳でしたが、良い経験になったということです。
サラエボオリンピックでの悔しさと挫折が転機となり、練習方法や肉体改造にはげみ、
・体脂肪率9%
・太もも63㎝
・背筋力210㎏
という、男性顔負けの肉体改造を行い進化を遂げたのです。
1988年カルガリーオリンピック
自身2度目となった1988年のカルガリーオリンピックですが、橋本聖子さんは23歳となっていました。
カルガリーオリンピックでは、肉体改造のかいもあって、出場した5種目すべて入賞の快挙を達成しました。
またタイムの方も、当時の日本新記録を達成したのです。
最後は意識を失うほどに全力を尽くしましたが、メダルを取る事はかないませんでした。
1988年夏季ソウルオリンピック
スケートと自転車競技は、使う筋肉が同じという事で、海外の選手は兼任している選手がいますが、日本人では橋本聖子さんが初でした。
練習でも、足の筋力アップのために自転車を使っていましたので、違和感はありませんでした。
橋本聖子さんは、自転車競技でソウルオリンピックを目指して日々練習に明け暮れました。
こちらでもメダル獲得までは行きませんでしたが、スピードスケートの方にも好影響を与えたのではないでしょうか。
1992年アルベールビルオリンピック
27歳となった橋本聖子さん。
レース後はやはり、倒れてしまいましたが、女性初の偉業を成し遂げたのです。
オリンピックの申し子と言われてきた橋本聖子さんですが、ようやく夢がかなった事になります。
その後も、夏季オリンピックのバルセロナ五輪、リレハンメル五輪、アトランタ五輪と出場しましたが、アルベールビル五輪を最後にメダルを取る事はありませんでした。
橋本聖子は政治家に転身
国会議員に当選し、オリンピック選手と政治家の二足の草鞋を履いて活動していましたが、選手として成績が伴わなくなってしまった事から、スポーツの方は引退せざる負えなくなりました。
スポーツ選手としては引退しましたが、現在でも業界とのつながりは深く、日本スケート連盟会長や北海道トライアスロン連合会長などを歴任し、2021年には森喜朗さんの後任で東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長にまで就任したのです。
オリンピックの会長に選ばれたのも、これまでの実績が評価されての事でした。
橋本聖子の番外編
こちらは珍しい橋本聖子さんの水着姿になります。
プライベートで、遊んでいるのではなくやはりトレーニングの一環として水泳をしていました。
アスリートだけあって見事なプロポーションですね。
こちらは、橋本聖子さんの鍛え上げられた太ももの筋肉になります。
しかしこちらの画像をよく見て下さい。橋本聖子さんではありませんよね。
実はこちらの太ももの持ち主は、同じスピードスケート選手の岡崎朋美さんだったのです。
何故か、橋本聖子さんと勘違いされている方が多くいらっしゃいます。
ちなみに橋本聖子さんと岡崎朋美さんは普段から仲が良いようです。
まとめ
橋本聖子さんの昔の若い頃から、現在までを振り返ってみました。
若い頃からオリンピックを目指して頑張ってきた橋本聖子さんですが、もう一つの夢である政治家にもなれました。
これまでの道のりは平たんではありませんでしたが、これからも日本の為に尽力してくれることでしょう。