三沢光晴のプロレス人生とは?事故前には予兆される出来事が!

スポンサードリンク

若かりし頃、胸を熱くしてくれたプロレスラーが三沢光晴さんです。

エルボーを主体としたオールラウンドプレーヤーで、体の大きな外国人にも負けず、数々のファイトを繰り広げてきました。

日本人でもここまで強くなれるんだ!と思わせてくれたのは、三沢さんの功績が大きいです。

そんな三沢光晴さんのこれまでのプロレス人生を振り返ってみましょう。

早くプロレスラーになりたかった

三沢光晴さんは元々スポーツ万能で、器械体操の経験もあります。

しかし、最も関心があったのはプロレスで「早くプロレスラーになりたい」と考えていたそうです。

その為、中学卒業と同時にプロレスラーになると宣言していましたが、いきなりプロレスラーになるのは、あまりにも危険と判断され、まずはレスリングの基本を学ぶために、自宅のある埼玉県ではなく県外の栃木県の高校へレスリングの特待生として進学します。

何故、県外の高校に進学したかというと、栃木県の足利工業大学附属高等学校はレスリングの名門で、ここでレスリングを学べば間違いないと判断されたからでしょう。

こちらの高校は、元プロレスラーの谷津嘉章さんもレスリング部の先輩で、名選手を数々排出しております。

1年後には川田利明さんも足利工業大学附属高等学校のレスリング部に入り、運命的な出会いを果たします。

▼川田利明さんの詳細記事はこちら▼

川田利明のプロレスラー時代から現在の居酒屋経営までの軌跡

2018.12.15

高校時代から一流レスラーとしての片鱗を見せる

高校時代からレスリング技術は卓越しており、国体でも優勝するなど結果を出していきます。

しかし本人はあくまでもプロレスラーになる事が目標であり、レスリング自体はあまり好きではなかったようです。

※山本キッドさんもレスリングの試合中、何度も相手の顔を殴りたかったと発言しています。

かくして高校でしっかりとレスリングを学び、いよいよ憧れであったプロレスラーへの道が見えてきました。

業界最大手の新日本プロレス

何故、業界最大手の新日本プロレスの方に行かなかったかというと、ジャイアント馬場さんの存在が大きかったといいます。

小橋建太さんもジャイアント馬場さんに憧れて全日本プロレスに入団しています。

スピードが早めで格闘技色の強かった新日本プロレスよりも、ゆったりとした感じの王道プロレスの方が、三沢さんには合っていたのかもしれません。

ご自身もスロースターターだと発言しています。

全日本プロレスでは早々から頭角を現す

入門してからたったの5ヶ月でプロレスデビューを果たしてしまいます。

これは異例の出来事で、どれだけ才能があったかというのが分かります。

若手時代から前座の試合でも名勝負を繰り広げて、お客さんを大いに沸かせました。

足利工業大学附属高等学校の1年後輩の川田利明さんも三沢さんに誘われて、全日本プロレスに入門します。

メキシコ修行も経てこれから順風満帆のプロレス人生を歩むと思われていましたが、ある出来事が三沢光晴さんの人生を大きく変えました。

スポンサードリンク

2代目タイガーマスク就任

初代のタイガーマスクが引退してしまったので、2代目タイガーマスクとして日本でデビューするという話が、勝手に作られてしまいました。

当時はまだメキシコ修行中の身でしたが、日本でタイガーマスク人気が冷めやらない中、二番煎じとも言える2代目タイガーマスク人事に最初は抵抗したといいます。

しかし、まだ若手だった三沢光晴さんにとってジャイアント馬場さんや会社の決めた事には逆らえず、不本意ながらも2代目タイガーマスクとして戦う事になりました。

2代目タイガーマスクの人気は?

二番煎じという事もあって、初代タイガーマスクほどの人気は獲得できませんでしたが、そこそこ人気は出ました。

強さは本物で、初代にも劣らぬ空中殺法で相手を翻弄しますしかし空中殺法の使い過ぎで膝を壊してしまいました。

このままタイガーマスクとしてプロレスをやるのは限界と感じたのかマスクを脱ぎ、元の三沢光晴としてリングに上がるようになりました。

超世代軍結成

当時、ジャンボ鶴田さんの最大のライバルであった天龍源一郎さんが、大量の選手を連れて全日本プロレスを退団してしまいました。

天龍源一郎なき後の全日本プロレスを支えるべく、怪物ジャンボ鶴田のライバルとして三沢さんが超世代軍を結成し、バチバチのファイトを繰り広げました。

この当時は、まだジャンボ鶴田には到底かなわず、パワー的には劣っていましたが、超世代軍が一丸となって立ち向かう姿に、毎週テレビ中継を見て感動を与えられていました。

超世代軍VS聖鬼軍

この頃が全日本プロレスで一番盛り上がっていた時期でした。

ジャンボ鶴田の実力

天龍源一郎さんがいなくなり、全日本プロレスが存亡の危機におちいりましたが、三沢さんを始めとする超世代軍が目覚ましい活躍を見せ、以前にも増して盛り上がりを見せます。

ライバルだったジャンボ鶴田は、

①プロレスラーナンバーワンの実力

②怒らせたら世界一強い

という異名を持っており、むしろ強すぎて手加減してプロレスをしていたという話もあります。

そんな相手に挑んでいたのですから、恐ろしい事です。

怒らせたら世界一強い!?

ある試合中の出来事ですが、リングサイドにいたジャンボ鶴田さんに三沢さんが、不意打ちのエルボーを食らわせたことにより、耳の鼓膜が破れてしまい大激怒!

場外で十数回連続のバックドロップ、容赦ないイス攻撃を加え、本当にこ○してしまうのではないかと心配されました。

止めに入った小橋建太さんまで病院送りにしてしまったほどです。

こちらは残念ながらテレビ中継が無かったので、写真でしか見ることが出来ませんでしたが、ジャンボ鶴田さんのリミッターが外れてしまった出来事でした。

三沢光晴急成長

試合を重ねていくにつれ、ジャンボ鶴田さんとも対等に渡り合えるようになります。

天龍源一郎さんがいる頃は、大きな存在の陰に隠れていましたが、いなくなり急激に頭角を現してきました。

やはりピンチは急激に人を成長させます。

エース不在

絶対的エースだったジャンボ鶴田さんが体調不良のため戦線を離れると、三沢光晴さんが全日本のエースとなりました。

ジャンボ鶴田さんがいなくなってしまったので、超世代軍から川田利明さんが抜け、対抗していた聖鬼軍に加入します。

これで強さのバランスを取りました。

超世代軍の方は、若手のホープだった秋山準さんや浅子覚さんが加入して新生超世代軍として生まれ変わります。

新たな図式の超世代軍VS聖鬼軍の戦いが始まったのです。

スポンサードリンク

三沢光晴さんが全日本プロレスの社長に就任

ジャイアント馬場さんとジャンボ鶴田さんがいなくなり、全日本プロレスの社長に三沢光晴さんが就任します。

この時に当時新日本プロレスのエースだった武藤敬司さんが三沢さんのところに訪れ、長年の夢であった新日本プロレスVS全日本プロレスを実現すべく、足掛かりを作ります。

以前はジャイアント馬場さんとアントニオ猪木さんとの確執があった為、実現は不可能でしたが、三沢さんが社長となったので実現へ向けて動きだします。

しかし全面対抗戦は実現はしませんでした。その理由はこのように考えられます。

対抗戦でランクが明確化

対抗戦をやると確かに一時的には盛り上がりますが、勝敗が決まってしまう為、完全にどちらの方が強いというのが分かってしまいます。

プロレス界で強いのは

1位新日本プロレス

2位全日本プロレス

この様になってしまうのを避ける意味合いがあったのかもしれません。

ファンとしては実現して欲しかった

プロレスファンとしては新日本プロレスVS全日本プロレスという夢のカードを実現して欲しかったです。

例えば

①小川良成VSライガー ジュニア頂上決戦

②川田利明VS橋本真也 蹴り対決はどちらが制す

③小橋建太VS武藤敬司 ムーンサルト対決

④田上明VS蝶野正洋 全日四天王VS闘魂三銃士

⑤三沢光晴VS武藤敬司 天才同士の対決

こちらが実現すれば、かなりプロレス界も盛り上がった事でしょう。

しかし、これ以上のものが無く一時的には良くても夢が無くなり衰退していってしまうという意見もあります。

昔から言われているアントニオ猪木とジャイアント馬場はどちらが強いのか?という疑問と同じです。

結果が分からないからこそ夢があり、議論が湧きおこり語り継がれるのです。

結果が出てしまってはそれまでです。

またしてもトラブルが

三沢さんが社長に就任してからというもの、今までやってこなかった改革に取り組みます。

5大シングルマッチなどの企画を立ち上げ、自らも参戦し話題を集めます。

今までの王道プロレスを実践しながらも、徐々に改革を推し進めようとしていました。

そこに立ちふさがったのが、故ジャイアント馬場さんの奥さんの馬場元子さんです。

実質の経営者だった馬場元子さんと三沢さんで運営の仕方で対立が起き、やがて三沢さんの方が嫌気がさしてきます。

そしてとうとう長年親しんできた全日本プロレスを出て、新団体を設立する事ととなったのです。

プロレスリングノア始動

三沢さんが理想とするプロレスを求めて、新団体プロレスリングノアを立ち上げます。

その思いに賛同したレスラーが集まり、かなりの数のレスラーが所属する事となりました。

当初は、ここまでの規模になるとは予想されなかったので、資金繰りに苦しんで,三沢さんの自宅を担保に入れて選手達に給料を渡していたという事実が後で判明しました。

プロレスリングノアは、今までにない華やかなスタートを切り、上場の立ち上がりを見せました。

三沢さんが新団体を立ち上げたとあって、マスコミもたくさん集まり話題性も抜群だったのです。

ノアでは秋山準が新エースに

プロレスリングノアの始動で劇的に変化したのが秋山準さんです。

あの三沢光晴さんを新技のフロントネックロックで絞め落し勝利をもぎ取っています。

「三沢越え」は川田利明さんや小橋建太さんは、かなり苦労しましたが、秋山準さんは難なくこなしてしまったのです。

ノアでエースを張るのは、三沢さんでもなく小橋さんでもなく秋山準さんだったのです。

スポンサードリンク

上々の立ち上がり

三沢さんが立ち上げたプロレスリングノアは、話題性もあり好調に集客に成功します。

今まで日本テレビで放送されてきた全日本プロレスもプロレスリングノアの方に切り替えられ、地上波でもノアの試合が手軽に見られるようになったのです。

これにより、益々知名度も上がり人気に拍車がかかりました。

長州力さんの立ち上げたWJが早々に撤退してしまったのをみると、不況なプロレス業界において、どれほど凄い事かよく分かります。

プロレスリングノア最強説

オーディションを行い、小橋建太と一文字違いのKENTAや鼓太郎などの加入もあって、若手の育成にも成功します。

プロレスマニアの間では「プロレスリングノア最強説」がまことしやかに噂され、プロレス界では新日本プロレスを押しのけ、ノアの選手が一番強いというのが定説となっていました。

それを知ってか知らずかノアとなってからは、今まで実現不可能だった新日本プロレスとの対抗戦が行われるようになり、当時のエースだった永田裕志さんや中西学さんなどもノアに参戦しています。

三沢さんが新団体を作った事により今までのバランスが崩れ、当たり前のように各団体で対抗戦が行われるようになりました。

しかし、全面対抗戦のような物はなく、あくまでピンポイントでの試合が多かったです。

それでも三沢光晴は強かった

プロレスリングノアの社長に就任してからも社長業に追われ、プロレスラーとしての練習もままならない日々が続きます。

それでもノアで新設されたGHCヘビーのベルトを巻いたり、タッグの方も小川良成と組みGHCタッグのベルトも手中に収めています。

全日本のみならず、ノアの方でも全てのタイトルを掴みました。

年には勝てない

三沢さんも40を過ぎ、さすがに体力の衰えを感じずにはいられませんでした。

体に限界を感じながらも、リングに上がらなければ集客に響くという事で、体に鞭打ち出場していたのです。

そんな時に、今まで長年日本テレビで放送されてきたノアのテレビ中継も打ち切られ、経営的にもかなりピンチとなってしまったのです。

更に追い打ちとなる出来事が、日本中を駆け巡ります。

三沢さんリングで散る

ノアの試合中、齋藤彰俊さんの高角度バックドロップを受けて帰らぬ人となってしまいました。

試合中での事故なので、齋藤彰俊さんに非はありません。

三沢さんは、今までの激戦で体中が満身創痍の状態で、無理してリングに上がっていました。

両膝、腰、肩、首など、ほとんどの箇所を痛めています。

特に首のダメージは酷く、日常生活でも痛みを訴えていたほどです。

なぜこれほどまでに酷い状態なのにリングに上がり続けていたのでしょうか?

全てはノアの為

テレビ放送も打ち切られ、その上ノアの象徴である自分が試合に出なくなってしまったらノアはどうなってしまうでしょうか?

自分が立ち上げた理想のプロレス団体ノア。

全日本プロレスから選手を引き連れてきたのも責任がありますし、団体の社長としても責任があります。

三沢さんは全日時代からどんなに怪我をしようが、他の人に止められようが試合に出続けていました。

時には、肩を負傷し片腕しか使えない状態でもリングに上がったのです。

無謀とも思えるこういった行動に周囲からも心配の声が出ていました。

それでもリングに上がり続けた理由は、ひとえに会場に見に来て下さっているファンの為です。

折角、遠くから三沢光晴の試合を見に来て下さっているのに、怪我で欠場となってしまっては、ファンの方にもう分けないという考えからです。

何よりファンを一番大事にしていたのです。

スポンサードリンク

なくなる前には予兆があった

今までは、どんなに体の調子が悪くともリングに上がり続けてきましたが、いよいよ体が思うように動かなくなってきます。

なくなる4日前に、東スポの取材でこのように語っています。

「俺、もうすぐ47歳(18日が誕生日)だよ?48、49まではちょっとやれない。もうやめたいね。体がシンドイ。いつまでやらなきゃならないのかなって気持ちも出てきた。やめたい・・・。(思いきって何ヶ月か休んだら?)それはダメだね。この歳になると、一度休んじゃうと気持ちが切れてしまって、もう1回って気持ちが出てこなくなるから。休む時はやめる時だよ。それにこんな時だし・・・若い選手に出てきてもらわないとね。若い選手が成長するのであれば、俺的には決して・・・その上でやめられれば・・・」

今までの三沢さんらしからぬ「やめたい」という言葉が。

それほどまでに体がボロボロの状態にあったと推測されます。

運命の日は明らかにおかしい

2009年6月13日に三沢さんは亡くなった訳ですが、この日の試合を見る限り、結果論ですが、非常に顔色が悪いように感じます。

目もうつろといった感じで、いかにも体調不良と見て取れます。

社長業が忙しく、練習もあまりできないせいか、お腹もかなり大きくなっている状態で、全盛期の面影はありません。

後の取材では、この試合を最後に長期休養に入るという話もあっただけに悔やまれてなりません。

リングでの最後の言葉はレフリーに言った「だめだ、動けねぇ」だったそうです。

46歳というあまりにも早い「し」でした。

三沢光晴の趣味

ここからは気を取り直して、生前三沢さんが趣味としていたものをご紹介していきます。

三沢さんの一番の趣味とされていたのがレースです。

あまりプライベートを表に出さない三沢さんですが、レースとなると楽しそうです。

その他にも意外な趣味としてフィギュア集めが趣味でした。

部屋には何百体ものフィギュアコレクションがあり、しっかりとガラスケースに入れて保存していました。

ゲームや漫画なども大好きで、三沢さんがゲームセンターにいる所をたびたび目撃されています。

あの巨体でゲームセンターにいたら目立ちます。

この一連の趣味を総合しますと、結構オタク系だったのではないかと思われます。

三沢光晴の家族

プライベートをあまり明かさなかった三沢光晴さんですが、奥さんと息子さんがいらっしゃいます。

奥さんの名前は三沢マユミさん

奥さんとの出会いは、奥さんがリングで花束を渡す役で出会い、その後のパーティーで三沢さんの方から電話番号の書いてある紙を渡して連絡を取り合うようになったというのが馴れ初めのようです。

息子さんもいて名前は三沢カエデというそうです。※男性

橋本真也さんの息子さんのように親父の後を追って欲しかったですが、プロレスラーになることはありませんでした。

スポンサードリンク

三沢光晴はかなりの酒好き

三沢さんはかなりのお酒好きだったそうです。

試合前にもかかわらず、深酒してしまうこともかなりあったといいます。

晩年、お腹が出ていたのも少なからずお酒の影響があったと思います。

プロレスラーには酒豪が多く、高田延彦さんを筆頭に、関節の鬼と言われた藤原喜明さんもかなりのア○中として有名です。

三沢光晴グッズ紹介

三沢光晴さんの関連グッズをご紹介致します。

今は無き三沢さんの激闘の歴史がよみがえります。

三沢光晴(本) 6月13日の真実とは?

▼クリックすると販売ページに飛びます▼

2009年6月13日に急逝した三沢光晴。

あの日リング上で何が起きたのか? 7回忌の今だから語れるノンフィクション。
稀代の名レスラー・三沢光晴がリング上の事故で命を落とした2009年6月13日。

当日、会場にいた選手、マスコミ、そして治療にあたった医師の証言から、あの日起こった出来事の真相に迫る。

死因は即死とも思われる頸髄離断だったが、ICUでは一度心拍が再開していたという。

広島大学病院の救命医があの日のICUでのことを初めて明かす。

そして最後の対戦相手となった齋藤彰俊は事故から数カ月後、三沢が生前に残したメッセージを受け取っていた。

「社長からのメッセージを受け取って、すべて受け止めて現役を続けるという自分の決断は間違っていないと思えました」という齋藤は「答えは自分で見つけろ」という三沢のメッセージを胸に今も歩み続けている。

また、小橋建太、潮崎豪、丸藤正道、鈴木鼓太郎、浅子覚、西永秀一ら深い関係を持つ人物たちにとって2009年6月13日からの三沢光晴はどう息づいているのか?

三沢光晴 DVD-BOX ノアでの激闘の歴史

2009年6月13日に試合中の事故で急逝したプロレスラー、三沢光晴の名勝負を厳選収録した映像作品。

ニ代目タイガーマスクのデビュー戦、マスクを脱ぎ捨て素顔に戻った試合、念願の“鶴田越え”を果たした試合など、手に汗握る熱戦が満載。

三沢光晴 DVD-BOX 全日時代のプロレスが蘇る

天才プロレスラー三沢光晴の名勝負集第2弾。

三沢光晴 メモリアルカードセット

不世出の名レスラー三沢光晴のメモリアルカードセットが登場!
★5000セットすべてにメモラカードを封入予定!
☆27枚のレギュラーカードで、デビュー時から本年までの足跡を振り返る。メモラビリアカードはコスチュームカードとエルボーパッドカードを予定!

三沢光晴追悼大会 DVD

不世出のプロレスラー・三沢光晴を偲び、各団体のスター選手が続々参戦。

武道館大会のメインは、最後のパートナー・潮崎と最後の対戦相手・齋藤がGHCヘビーを争う。

大阪大会のメインでは、2005年7月東京ドーム大会以来となる川田が、リングに上がった。新たなNOAHの船出ともなった2大会を収録。

(本)ドンマイドンマイッ! 三沢光晴からのメッセージ

レスラーとして、社長として、一人の人間としてー。満身創痍になりながら、ぼくらに残してくれた、お茶目で優しい言葉たち。
三沢光晴本人による2005年11月から2009年1月1日までの85日分の日記。

まとめ

プロレスラーとして数々のタイトルを総なめにしてきた三沢光晴さん。

正に頂点を極めたレスラーといえます。

三沢さんは、技の開発にも熱心で未だにその技は現役レスラーに引き継がれています。

三沢さんに憧れてプロレスラーになった人も多く、いなくなってもなお伝説のレスラーとして語り継がれるでしょう。

三沢光晴さんのご冥福をお祈り申し上げます。

川田利明のプロレスラー時代から現在の居酒屋経営までの軌跡

2018.12.15
スポンサードリンク